20090122 学外语
2009年 01月 22日
外国語を学ぶ目的やその方法論はみなさんそれぞれ持論がおありかと思いますが、いずれにしてもリンク先の内田樹さんの記事は一読しておいて損はないかと。引用というには長すぎるかもしれませんけど、一部を。
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内田樹の研究室 福翁の「はげしい」勉強法
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無為的日子。ムイ、ナ日々。 琉球大学の授業削減計画について、明日みなさんに、じかにお知らせします。
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私たちはなぜ外国語を学ぶのか、その根本のところの理解を教育行政がまったく取り違えているから、こういうことになるのである。
繰り返し言うが、外国語を学ぶのは、それが「外部へと繋がる回路」だからである。
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
現在の教育行政は「自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて」勉強するのが標準的な人間だと思い、それをデフォルトにしてすべての教育プログラムを構築している。
それは知識や技能を習得することそれ自体ではなく、知識や技能をもつことで得られる「利得」に照準することへと子どもたちを向かわせる。
重要なのは知識や技能があることで獲得される「利得」であり、知識や技能はそのための迂回的な「ツール」にすぎない。そう教えられていれば、いずれ子どもたちが「ツール抜きで、利得だけ占める方法」を考案することに知的リソースを優先的に配分するようになるのは理の当然である。
現にそうなっている。
利得という「にんじん」をぶらさげて子どもを利益誘導して勉強させれば、必ず子どもたちは「にんじん」だけ手に入れる方法を考え出す。
英語ができると「いいこと」があると教えられれば、「できるだけ少ない英語の学力で、『いいこと』だけ手に入れる方法」を考え出す。
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by johny_gee
| 2009-01-22 18:33